メシアを通した血統転換

メシアはなぜ、地上に来なければならないのでしょうか。それは根が違うからです。血統が違うからです。メシアを迎えて血統転換をしなければならないのです。私たちは根が違うのです。今までのすべての芽を取り除き、根を取り除いて、メシアを中心として接ぎ木をして、メシアの根からメシアの芽へと進んでいかなければならないのです。接ぎ木をすれば、同じ根の実を結ばなければなりません。
それゆえ既成の習慣というのは、絶対に許されません。自分は大韓民国の人であるという意識をもつことそれ自体が、サタン側であることを自証するものです。ですから国家や民族を超越し、国境を超越して克服しなければなりません。私は天の国の民であり、私は神様の直系であり、私の根は神様であって、サタンとは関係がないと言わなければならないのです。
血統を通して何が相続されるのでしょうか。天の心情が相続されます。その心情の伝統が、どのように相続されてくるかが問題です。いかにして今日、神様の心情が私たちに連結してくるのかというと、それは血統復帰によって可能なのです。善なる絶対的な神様を中心とした、一つしかない血統、絶対的な血統を中心として、それを自分が感じ、そこで体験することによって神様の心情圏が形成されていくのです。(文鮮明先生の御言葉 1988年1月7日)

堕落人間はメシアを迎えて原罪清算、すなわち血統転換することによって本然の人間に帰っていくことができる、これが統一原理を通して学んだ、メシアによる救いの意味です。
しかし、本然の人間であったアダムとエバが堕落したという事実から、血統転換された私たちであっても、再び堕落する可能性があることを否定することができません。
二度と堕落することのない完成した人間に、どのようにして至ることができるのでしょうか?
血統復帰によって天の心情の伝統が相続される……。
ここに、その鍵がありそうです。
『原理講論』(p.66)から引用してみましょう。

神を中心とした心と体とが創造本然の四位基台を完成した人間は、神の宮となって、神と一体となるので、神性をもつようになり、神の心情を体恤することによって神のみ旨を知り、そのみ旨に従って生活するようになる。このように個性を完成した人間は、神を中心としたその心の実体対象となり、したがって、神の実体対象となる。ここで、その心と神は、このような実体対象からくる刺激によって、それ自体の性相と形状とを相対的に感じることができるので、喜びに満ちることができるのである。そうであるから、個性を完成した人間は、神の喜怒哀楽を直ちにそれ自体のものとして感ずるようになり、神が悲しむ犯罪行為をすることができなくなるので、絶対に堕落することがない。

血統転換は救いの完成ではあるけれど、そのまま人間の完成とはならないと理解できます。
人間自らが責任分担を果たすことで神の宮となって、神の心情を体恤するようにならなければ、完成した人間になったとはいえないようです。
「責任分担を果たす」ということがあまりにも重大であると感じます。
昨今、耳にするさまざまな出来事は、大変残念で、心痛む内容ですが、私たちが決して忘れてならないのは、メシアと出会って、メシアと共に生きていく上で、最も重大な事項が自己の責任分担を命懸けで全うすること、ではないかということです。
「祝福」の価値の素晴らしさを強調することも大切ですが、重要なことは、「祝福」の価値を実体のものとして完成させる責任があるということです。
これをもっと強く自覚しなければならないと思うのです。
血統転換は出発点に過ぎない、と言ってしまっては不遜でしょうか。
人間の責任分担とは、万民が畏れるべき、神聖かつ深刻な信仰生活における核心的テーマだと思います。
自分自身の心が神様の心情に通ずる基準をもたずしては、四大心情圏の完成も、三大王権の完成も、皇族圏の完成もあり得ないということなのでしょう。




文鮮明先生