主体という位置

主体という位置とは、どのようなものでしょうか。全体の責任を自分が担うのです。そして、相対が行く道において妨害となり得るすべてのものを除去し、その道を築いてあげるのです。そして、彼らが順応するまいとしてもせざるを得ないよう、自動的に従ってこれる道を築いてあげる者になってこそ、責任者としての任務遂行を果たすのです。このような結論を下すことができます。それが原理的な結論です。(文鮮明先生の御言葉 1975年12月29日)

統一原理を学ぶと、「主体」と「対象」という原理用語に頻繁に触れることになります。
主体と対象という関係概念こそが原理理解のいろはの「い」ではないだろうかと思うほどです。
私はこの御言葉を読みながら、文鮮明先生ご自身が主体としてそのような道を歩んでこられたのだなあと感じました。
弟子たちや、統一教会の信徒に対してだけでなく、人類に対して主体として立ち、人類に対する責任を果たすために生きてこられたお方なのだと。
主体という位置は対象に対する責任者の位置である、これが原理の核心的内容なのだろうと思います。
主体と対象が一つになることは簡単ではありません。
「彼らが順応するまいとしてもせざるを得ないよう、自動的に従ってこれる道を築いてあげる者」になることがどんなに大変でしょうか。
倦むことなく、諦めることなく、放棄することなく、そのような道を一歩一歩進んでこられた文鮮明先生であったのです。



人類の主体として立っている文鮮明先生