「公」と「私」の分別基準で問題を解決する

私的なことは悪に属するのであり、公的なことは善に属するのです。歴史も同様です。私的な歴史はサタンの歴史であり、滅びる歴史です。公的な歴史は神様の歴史であり、善の歴史です。皆さんが教育するときにも、そのような観念でしなければなりません。目で見るときも、私的に見るのか、公的に見るのか。鼻でにおいをかぐときも、私的にかぐのか、公的にかぐのか。耳で聞くときも、私的に聞くのか公的に聞くのか。仕事をするときも、私的にするのか、公的にするのか。歩くときも、私的に歩くのか、公的にあるくのか。この基準ですべての問題を解決しなければなりません。(文鮮明先生の御言葉 1970年11月15日)

かくも「公」と「私」の分別を厳しい基準で徹して行ったのが文鮮明先生なのです。
「私的な歴史はサタンの歴史である」
このような観点もった人間が歴史の中にいたでしょうか。
絶対利他主義ともういうべき生涯を貫かれた文鮮明先生だったのではないかと思います。
神の歴史、善の歴史を残そうと思えば、「ために生きる」人生哲学に徹して生きていかなければなりません。
これが絶対利他主義の生き方であり、神の歴史、善の歴史に残る唯一の方法のようです。
さて、私はどのような人生を生き、どのような歴史の一部のなって残るのか……。
振り返って、恐ろしくも恥ずかしい日々であったと思わずにはおれません。



神の歴史に残る文鮮明先生の生涯