目的の主人

目的の主人になり得る人がいなければならない。(『御旨の道』Ⅰみ旨について・二 復帰・復帰の心情)

無目的に何となく生活している人々が増えているように感じます。
他人事ではなく、あまりにも便利な現代社会に生きていると、自らもそのようになってしまいかねません。
目的を知ることはとても大切です。
無目的と無価値は表裏一体です。
無目的に生きていると、無価値な人生を送ってしまいます。
統一原理では、「創造目的」を教えています。
神様が人間と宇宙を創造した目的が何かというテーマです。
造られし者、人間にとってはそのまま存在理由、生きる目的が何かというテーマとなりますね。
日常生活においても、私たちは「目的」に囲まれて生きています。
普段をそれを意識することは多くないかもしれません。
しかし、目的が目的であって、目的のための目的ではないとすれば、その目的は達成、成就されなければなりません。
ここに「目的の主人」という概念が生じてきます。
目の前の万物も「目的の主人」を求めています。
私たちの生活一つ一つにも目的があるために、「目的の主人」という概念を持たなければならないのです。
目的はあっても、目的の主人になり得る人がいなければ、価値は生まれてきません。
神様の創造目的の主人として生きてこられたかたが文鮮明先生です。
文鮮明先生の血と汗と涙の結実である祝福家庭ももた、氏族的メシアとして生きていこうとすれば、その目的の主人とならなければ、そのタイトルには何の意味も価値もないということになります。
氏族的メシアとしての目的の前に、その主人となり得る自分でありたいと願います。



神様の目的の主人として生きてこられた文鮮明先生