文鮮明先生の勝利権

神様の息子の位置で、私は養子になり、たとえ僕の僕の位置で死んだとしても、私は息子の位置でかつて死んだ人以上に、その人に尽くしたのです。ですから、見えないサタンも讒訴できないのです。「神様の息子がどうしてこのような位置にまで降りて来てこんなことをするのか?」などとは言えないのです。僕の僕の道は、私が願って行ったのです。イエス様がゲッセマネの丘で三回祈祷する時、「この杯を私から過ぎ去らせてください」と言いましたが、私は僕の位置に行っても、そのように祈祷することができませんでした。「私は自ら願ってこの杯を飲みます。たとえ僕の僕の位置で死んだとしても、お父様の願い以上の位置で死んでいきます」と祈ったのです。(「摂理から見たアベルの正道」より)

文鮮明先生の勝利権とは何か。
アダムの失敗を取り戻し、第二アダムであるイエス様の成し遂げられなかったことを成し遂げるのが、第三アダムである再臨主だというのですが、何を取り戻し、何を成し遂げなければならなかったのでしょうか。
これが分かれば、文鮮明先生が何を成そうとしたのか、何を成したのかが見えてくるに違いありません。
御言葉は御言葉で読み解くしかありません。
引用の御言葉の中に、その一端が証しされ、示されているように感じます。
「不平を言ってはならない」「死なんとする者は生きる」といわれることの意味がここに語られています。
神様の息子はどんな立場に置かれたとしても、その道を喜んで行くというのです。
責任を果たす道とは、かくも深刻な道なのだと悟らされます。
文鮮明先生の心情世界を知ること、その一端でも共有することは、素晴らしいことではありますが、一方で恐ろしいことだあるとも思います。
中途半端な覚悟や、いい加減な決意で文鮮明先生の勝利権を相続する道を行ってはいけないなと思わされます。