アベルの行く道

皆さんにも悲しい時があるでしょう。先生にも悲しい時が多いのです。痛哭する時が多いのです。そういう時、神様をつかまえて、「どれほど悲しまれたことでしょうか。あなたの愛する息子、娘たちの悲しみを見られてどれほど悲しかったでしょうか?」。「人類が行かなくてはならない復帰の道はどれほど悲しいでしょうか?」。そうして、涙を流すのです。それがアベルの行く道です。(「摂理から見たアベルの正道」より)

神様の側に立てば立つほど、神様に近づけば近づくほど、神様の心情圏に触れるがゆえに、神様の悲しみの心情の境地に至るのがアベルの行く道だということです。
アベルの心はいつも神様の心情を訪ねて歩んでいるのです。
それゆえ、「父母の心情、僕の体」をもってカインを探し、カインを愛し、カインのために犠牲の道を行かざるを得ない、行かずにはおれないのがアベルなのです。
私たちは、アベルだとかカインだとか言いますが、アベルの存在意義、カインの摂理的意義をよくよく原理的に理解しておかなければとんでもない信仰路程を歩むことになりかねません。
祝福家庭しかり、氏族的メシアしかりです。
アベルとして召命された道がいかなる道であるかを見失ってはいけないのです。
もう一度、アベルとは誰なのかを問うてみるべきでしょう。