イエス様の心

エス様を信じることを知りながら、イエス様の心を知らないようであってはいけない。(『御旨の道』Ⅲ・二 信仰生活 1367)

きょうはクリスマス・イブです。
降誕祭の一日を皆様はいかがお過ごしでしょうか。
エス様に思いを馳せながら、キリスト、イエスの聖誕を祝う一日がクリスマスです。
御言葉のように、イエス様を信じる人は多いのかもしれませんが、イエス様の心、すなわちイエス様の抱えておられる事情と心情を知っている人が世界にどれだけいるのかということを考えざるを得ません。
その点で日本社会のクリスマス事情を見るとき、あまりにもイエス様の心から離れてしまったものであると言わざるを得ませんし、心が痛むのです。

聖書の読んでみても、ある意味でイエス様は悲しい、寂しい人生を歩まれたことが分かります。
神様に祝福されてお生まれになったイエス様でありましたが、同時に人々にも祝福されなければならなかったと思います。母マリアが身ごもったときの周囲の目、イエス様の馬小屋での誕生の事情、記録に残されなかった12歳以降30歳までの青年時代、結婚できなかったイエス様、そして、十字架による死……。

少し話が飛躍しますが、祝福子女もまた、天に祝福されて生まれながらも、人に祝福されず、つらく寂しい人生を送っている場合も少なからずあるのではないかと心配し、心を痛めます。
祝福の子女たちが、祖父母や親戚、周囲の人々に祝福されて生まれ、育っていくことができるなら、どれほど素晴らしいことでしょう。
本来、歴史を懸けて誕生した祝福子女です。
エス様の恨みを解くためにも、祝福家庭は誕生した祝福の子女を周囲の人々から祝福されるように配慮し、努力し、腐心すべきです。
自分の親、兄弟はもちろん、お世話になっているかたがたに対して、神様の祝福の中で誕生した子女を天の栄光として証し、ちゃんとお披露目し、多くの人々と連結しながら、祝福子女の行く道を直くしてあげるべきです。
それができない状況があるとすれば一日も早くそれを改善すべきでしょうし、そのような意識を持てない祝福子女の父母であるとしたならば、今一度、目の前の祝福子女の存在意義を見つめ直すべきでしょう。
私たちは天がどのような心情で祝福家庭を見つめておられるかをよくよく考えてみるべきです。